「コミュニケーション能力って何?」 堀裕嗣 著 [本(新書/その他)]
前に教育関係の本を読んだこともあって、ちょっと珍しい本を読みました。
「コミュニケーション能力って何?」です。
アマゾンの関連本の広告でタイトルに興味を持ったのでした。
コミュニケーション能力って何?―学級の空気を更新する生徒指導
- 作者: 堀 裕嗣
- 出版社/メーカー: 学事出版
- 発売日: 2013/07/29
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
実際、自分が過去に読んだ本が参考文献として何冊か出てきました。(「いじめの構造」「友だち地獄」「教室内カースト」)
それもあって、最初の方は興味深く読めたのですが、一貫性がないようでわからなくなりました。
著者は現役の中学教師で、学級経営や生徒指導の本など何冊か書かれているようだ。
タイトルの話は、第1章だけで(これが目的だったのに)、あとはほとんど、副題の「学級の空気を更新する生徒指導」の感じがある。
第1章はコミュニケーションについての著者の考えが書かれている。
日本人のコミュニケーションは摩擦回避のためにディセンシー(礼儀正しさ)によって自分を守ることに焦点を合わせがちになること。
コミュニケーション不全は表現が問題なのではなく、コンテクスト(文化)の齟齬によって起こる事案の方が圧倒的に多く、「対話の作法」を形成するより、その齟齬を察知して、それを取り除く方が(コミュニケーションが)はるかに機能するという考えだ。(これには共感する)。
学級の小グループでの”誰も上位にあってはならない”という徹底したフラット関係やそれに関連したいじめというのも、すごく納得できた。
第2章に出てくる「織物モデル」というのも、興味深かった。
「教師と生徒」を縦糸、「生徒と生徒」を横糸に例え、また、その二つの関係の関係性も考えた理想の学級経営だ。
第3章以降から、何となくごまかされたような気になってしまい、著者の考えがわからなくなった。
「マクドナルド化する学校教育」とか現実的に理解できないわけではないが、それを肯定するような著者の「環境調整型権力」で学級を経営し、いじめの空気とかも更新していくというのは、問題の本質を見ないで、表面だけきれいにするのと同じように思える。
生徒たちがそういうものを感じとって、ますます人間関係がおかしくなりそうな気がする。
その反対である80年代までの「規律訓練型権力」でやっていく時代は終わったし、やっていけないようなことを言いながら、終わりの章では学校教育に「"密度"より"濃度"を上げる」とか「同僚と対話を重ねる」ことを書いている。
矛盾を感じるのだが。
「自分の得意分野で成果を出す」ということも、80年代のやり方ではないのか?
教師を育てた話もあるが、だったら生徒もやり方は同じでないのかな。
自分の読解力がないのか?著者が何が言いたいのかわからなくなった。
アリバイづくりのような教育カリキュラムとか不適格教員は"増やされている”という今の教育環境など、教師の大変さはよくわかった。
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